☆坂本勇人の歴史☆
小学生時代は田中将大(楽天)とチームメイトでバッテリーを組んでいた。ちなみに当時は坂本が投手で田中が捕手である。ただ特別仲が良かったわけでもなく、仲のいいグループが違っていたので普通の関係。
青森の光星学院から2006年の高校生ドラフト1巡目(中日ドラゴンズ・堂上直倫のハズレ1位)で巨人に指名され入団。1年目は二軍で遊撃レギュラーとして積極的に起用され、2年目の2008年、二塁手として巨人では松井秀喜以来の10代開幕スタメン出場を果たす。その開幕戦で遊撃手の二岡智宏が故障離脱したため、その後は遊撃手のレギュラーとして、全144試合にスタメン出場した。10代での全試合スタメンは中西太、清原和博以来史上3人目。ポジションを奪われた二岡は不祥事もあって同年オフ、北海道日本ハムファイターズにトレードされた。
2009年はさらなる飛躍を見せ、春先から打ちまくり一時は打率が4割を超えた。その活躍が認められてシーズン途中から1番に抜擢される。夏場に腰痛を発症して調子を落とすが、育成上がりの松本哲也との1、2番コンビを組み、優勝に貢献。生え抜きの若手の躍進が目立った2009年の巨人を代表する選手のひとりとなった。
2010年は全試合全イニングに出場。巨人の遊撃手として最多の31本塁打を放った。その一方、あまりにポップフライが多かったため終盤戦では一時1番を剥奪されたこともあった。中日とのCSファイナルステージでは腰を痛めて離脱。第4戦にスタメン復帰するもチームは中日に敗れ、スタメン定着後初めて日本シリーズに出場できなかった。
2011年も全試合に出場、16本塁打を放つが、春先以降は打率が伸び悩み(最終的に.262)2年ぶりにスタメン落ちも経験。1番以外に2番、3番、5番、6番などでも起用されたが、結局は1番に落ち着いた。
2012年も全試合に出場。1番打者として出場していたが、4月下旬から3番として起用され、長野久義と共に最多安打のタイトルを獲得。最終戦では球団記録の20回目の猛打賞も記録し、リーグ2位の打率.311をマークした。
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